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マルイの歴史

創始者が執筆した『商人の道』から読み解くマルイの歴史

1)創業者の誕生~修行時代

商人の道表紙
▲ 商人の道表紙

マルイの創業者・石原章は明治42年4月20日に今も出雲街道の宿場町としての面影を色濃く残す、岡山県真庭郡勝山の地に6人兄弟の2番目の子として生まれた。章が商売の道に進むきっかけとなったのは、父の進言からだった。武士の血をひいていた父・豹蔵は非常に真面目で、几帳面、しつけに厳しかったが、当時の商売の隆盛ぶり、また、毎日現金収入があるということが利点に思え、章に商業学校への進学を奨めた。岡山商業学校を卒業した章は、神戸の乾物問屋、「乾商店(いぬいしょうてん)」へ就職し、本格的に商人の道を歩き始めた。「乾商店」は乾物問屋で、干海苔、干瓢(かんぴょう)、椎茸、高野豆腐、干麺類、鰹節、寒天のほか、瓶・缶詰、鶏卵などを取り扱い、品目は少ないものの、取り扱い数量は神戸では一流だった。この時から、章は近い将来に独立することを目指していた。乾商店で5年間の修行を終えた章は、津山へ帰り、念願であった自分の店を開業することとなる。章が故郷の勝山ではなく、津山藩の中心地として栄えていた津山市に店を出すことになったのは、津山市元魚町で魚屋をしていた親戚の川村虎三郎、久四郎兄弟の存在が大きかった。津山に到着した章は、まずこの川村兄弟に師事して商品の仕入れ、お得意まわりなどの勉強を行い、昭和6年2月10日、元魚町の川村兄弟の店を半分借りて食料品店を始めた。これが、現在の株式会社マルイの前身である「マルイ食料品店」である。このとき、石原章は23歳だった。

勝山町の石原家旧宅・復元スケッチ
▲ 勝山町の石原家旧宅・復元スケッチ

神戸終業時代の著者(20才頃)
▲ 神戸終業時代の創業者

創業時の商標
▲ 創業時の商標

2)マルイ食料品店の創業

マルイ食料品店で取り扱った商品は、瓶、缶詰、塩干物、一般干物などだった。創業当時のマルイ食料品店は小さな店で、翌年の昭和7年には向かいにあった店舗を買い取って移築した。それでも間口は二間(約3.5メートル)しかなかった。当時の商売はお得意回りがその中心を占めており、他の店との競争も激化していく。そんな中、章が貫いた考え方はその後もマルイの商売の在り方を左右することになる、「正しい商い」を行うというものだった。不特定多数のお客を相手にする商売ではなく、「お得意先」というある意味、縁故が強い商売形態が中心だった。商売に対する「信用」が大きな価値を持つ、その信用を勝ち取るためには、日々の一つ一つの取引の「正しさ」が大きな武器となると考えた。「正しい商い」を続けていくことによって、章はマルイ食料品店を順調に発展させていった。従業員数も昭和12年頃には8名になり、酒や醤油など取り扱い品目も増加していた。しかし、昭和12年の日華事変を境に、時代は日中戦争、そして太平洋戦争へと突入していく。当初は中国大陸の呉城鎮にマルイ食料品店の支店を出すなど、戦時中も商売に積極的だったが、戦局の激化とともに商品の数も少なくなり、遂には商売を一時断念、家族を故郷勝山に疎開させるとともに、自らは軍属としてジャワへ出征することとなった(昭和17年11月、章33歳)。戦地より帰還し、再びマルイ食料品店を開始するのは終戦後、昭和21年12月のことだった。この頃の商いは商品確保との戦いだった。物資は配給制が多く、配給制の商品を販売するためには、販売する家庭の承諾と登録、配達をしなければならなかった。また、売価の面での統制から、警察に拘留されることもあり、商人にとっては非常に商いのしにくい時代だった。
このころから、章はお得意先まわり中心の商売に疑問を感じ始めた。今の商いでは、商品の選別、売価などは全て売り手が決定することになり、買い手は価格や品質によって自分で商品を選ぶことができない。商いは売り手を信用してもらうことから始まるが、それでも商人が中心の商いである。「お客様が中心となった商いができないものか」、お客様が自らの目で商品を選び、取り分け、賃金を払う。そんな商売の仕組みを章は求めていた。章の「正しい商い」への思いは、セルフサービス方式の導入へと繋がっていく。

マルイ本店の本店の菓子コーナー
▲ マルイ本店の本店の菓子コーナー

当時のマルイ店内
▲ 当時のマルイ店内

3)「正しい商い」とは何か?

「正しい商い」とは何か。自問自答していた頃、章は商業界ゼミナールに出会った。「食品商業」などの商業に関する書籍を出版している「商業界」が箱根で開催したこのゼミナールは、徹底的に正しい商人としての在り方を身につける、いわば商人道、商人の体質改善を目的とするものだった。当初、章は、儲けを増やしたいといういわば経営上の理由からゼミナールに参加したが、商業界ゼミナールで説かれた商人像はそれとは全く違った。「商人とはどうあるべきか」。そこには章の求めていた「正しい商い」への答えがあった。
章に大きな影響を与えた商業界ゼミナール。そのゼミナールの中から、章はもう一つ、自らの商いに対する重要なヒントを見つけた。昭和28年に東京青山で初めて採用され、翌29年にゼミナールの課題となって注目された「セルフサービス方式」である。

箱根ゼミに参加して商業界エルダー会長日下氏(左)と著者(昭和30年2月)
▲ 箱根ゼミに参加して商業界エルダー会長
日下氏(左)と著者(昭和30年2月)

つやまの町にもるいのない、いい店になれ…と倉本先生から励ましの色紙
▲ つやまの町にもるいのない、いい店になれ…
と倉本先生から励ましの色紙

「当時、日本で初めてであり、誰もが何もかもわからないものに触れた訳だが、話を聞いて、食料品を扱う私の経営としては、これ以上のものはない。これに限るというイメージを受けた。このときが、私の非常に大きな発展に向う絶好のチャンスだった。」

箱根ゼミから帰った章は、家族と相談し、「フンドシ一本になっても」の覚悟で、セルフサービス方式の採用に向けて本格的に動き始めた。しかし、従来の商いのやり方と全く違セルフサービス方式の採用には、様々な問題が立ちはだかった。セルフサービスのためには、全ての商品が手に取れる場所に陳列され、売価がついていなければならず、店舗の再設計と改装が必要だった。また、セルフサービス方式では、現金販売が原則。現在では当たり前となっているこの支払方法だが、当時は売掛け販売など、商品を先に渡して年末、月末に集金する方法が広く浸透していた。この問題に対して、一軒一軒「セルフサービス化します」というチラシをもって挨拶に行き、支払額の分割払いなどを条件とすることによって了承を貰っていった。現金販売に必要なレジスターも購入し、セルフサービス方式を採用した店としてマルイ食料品店がオープンしたのは、昭和30年10月10日だった。日本に初めてセルフサービス方式が出現してからわずか2年。全国で七番目という早さだった。それまでの日本の商売にとって革新的な販売方法であるセルフサービス方式の導入は、章の思惑通り、その後のマルイ食料品店の発展にとって、大きなターニング・ポイントとなった。

セルフサービス方式採用後のマルイ食料品店
▲ セルフサービス方式採用後のマルイ食料品店

セルフサービス方式を紹介する看板
▲ セルフサービス方式を紹介する看板

4)株式会社マルイの設立とマルイの価値観

マルイ食料品店がセルフサービス方式を導入してから3年、新しい小売経営法としてセルフサービス方式は日本全国に広がり、昭和33年にはその導入店舗は全国で300店を超えた。 津山でもマルキ、株式会社福屋、マルシンなどが競合店として誕生し、競争が激化していく。 このような競合に打ち勝つために、章は、「マルイとしての店舗の価値観を高める」ことに力を入れた。特にこだわったのが「商品の価値」という考え方である。「商品の価値」とは、その価格と品質によって定められる。 価格だけに注目して悪い商品を仕入れるよりも、本当にお客様にとって価値のある商品を「善意いっぱいの価格」で販売することが、店舗の価値観を高めることに繋がると考えたのだ。 競争が激化する中においても、マルイ食料品店は順調に売上を伸ばし、発展していった。昭和32年7月5日には店を330㎡に増築し、翌昭和33年3月31日には法人化を行い「株式会社マルイ(資本金55万円)」が誕生した。

セルフサービス方式採用後のマルイ食料品店
▲ セルフサービス方式採用後のマルイ食料品店

若かりし頃の石原祐佶副社長レジ立ちサービス(昭和33年)
▲ レジに立つ石原祐佶現会長

昭和35年の新装開店の広告
▲ 昭和35年の新装開店の広告

フードチェーン時代最後の折り込み広告(昭和43年)
▲ フードチェーン時代最後の折り込み広告
(昭和43年)

5)「正しい商い」とは

章の考えた「商品の価値が店の価値を決める」、「安易な廉売に走るのではなく、お客様の視点に立ったお客様にとって本当に価値のある商品を品揃えする」という考え方は、現在もマルイに生き続け、店舗運営、商品開発などに大きな影響を与えている。 法人化により株式会社マルイが誕生した頃、東京オリンピック(昭和39年)や大阪万博(昭和45年)を頂点とする高度経済成長時代の大きな波が押し寄せていた。章はこの時代の流れを敏感に読み取りながら、積極的に商いを拡大し続け、昭和57年には遂に年商100億を突破した。 法人化を行った昭和33年の年商は5千8百万。わずか25年で100倍以上の増収となった。 この期間に開店した店舗は11店舗。惣菜の集中生産工場、本部制度の導入など、お得意先まわりを中心としていた「マルイ食料品店」時代を顧みると飛躍的な発展を遂げた。創業者・石原章は自ら追い求め続けた「正しい商い」についても、商業界ゼミナールで学んだ商人としての信条(商売十訓)を基に、以下の言葉を残している。 それは時代が変わり、どのように商売形態が変わろうとも、ものを売る「商い」に携わる者が持ち続けていなければいけない思いであり、今も、株式会社マルイの従業員の中に、大きな自信として生き続けている。

「商人の生き方にも色々と型があります。中には、お金の奴隷のように、金儲けのためならなんでもやる、即ち、手段を選ばないような商人もあるようです。マルイは、正しく生きる商人として、誇りが持てるものでなければなりません。 この信条を心とし、悟りとすることです。それを身につけることです。人からは愛され、尊敬され、感謝されながら自分も幸福であり、周囲の多くの人達にも幸福を導くことです。なんと、素晴らしく、尊いことではありませんか。大いに、この誇りを持ちましょう。 お金はかけなくても、“タダ”で持ち続けることのできる「正しく生きる商人の誇り」です。」

若き日の創業者
▲ 若き日の創業者

昭和28年のマルイ食料品店
▲ 昭和28年のマルイ食料品店